2020/09/01 09:29

前回の続き。


『私(個人)としての生きる意味』や『一人の人間としての幸せ』ってなんだろう?

と考えた。

これには3つの答え混在していた。

大切だから、長くなる。(笑)

大切だと思うから、一つずつ書き残して置きたいと思う。

①やっぱり、菓子を作り誰かに喜んでもらえる事は好き。

自分の作り出した菓子を食べるのも好き。(自分の一番の好みで焼いているからやっぱり自分の菓子が一番美味しいと思っている)

店を休業した今も結局菓子を焼いていて、友人に配っている^^;


②社会に必ず出ていく息子達に親だから伝えられること、生きていくことを一緒に暮らす中で、今だからこそ言葉や姿勢で伝えて行きたい。

私自身そんな出来た“人格者”ではないけれど、大人になる過程を経たからこそ、今も経験しているからこそ、今息子たちとしっかりと暮らしの中で向き合って生きていく、その姿勢は、今、だからこそ大切にしたいと思っている。

それは、“”なんでも親がやってあげる。“”

とか、そんな事でもないし

“”見守ると言いながらのただの他人任せの放置プレイ“”ではもなく。

【必要な時】にちゃんと向き合い、言葉と態度で 親 が見せたい。私は。

それは、親だからこそ「コイツ、ウザい事、言うなぁ。」も、ちゃんと言って態度で示して向き合いたい。

甘やかすことも放置することも簡単で。

誰かに「悪い事したら家の子怒ってくださいね~。」後は放置。というのも簡単で。

でも、そんな“”嫌われ役“”というめんどくさい事、他人の子にやる人なんかこの社会に少ないと思ってる。間違った方向で怒る人(その自分だけの為)はいるだろうけれど。

注意する以前にサッと離れていく人の方が多い。し、私自身、この人違うな。と思ったら離れていく。自分の時間をわざわざその人に使いたくないから。

けれど、子供は別で。まだ自分の事しか考えられない場面もある。(大人も多いし私自身落ち居ている時もある。自分の事を大切にはするけれど甘やかしたくはない)

だからこそ、面と向かって誠心誠意込めて注意する、そんな親の役目があると思う。

社会で息子たちがそんな人間社会でつまずかない様に。

相手の背景を思いやる事。や

正解のない問いが暮らしの中でいっぱいあって、

だからこそ

【その中で自分はどうしたいのか?という問いかけ】や

【自分で自分の正解を決めて行動する。】が大切になってくる事を今のうちから触れていて欲しい。

その為には。

子供たちの日常に転がっている【ささいな出来事=必要な時】に

親が気にかけている事が大切だ、と私は思っている。

そんな【必要な時】って意外と日々の小さな小さな一コマだと

休業して、家で子達を見ながら仕事し、感じている事で。

そんな今しかない【必要な時】を見逃したくはない。

そんなの、親ではなくとも、

誰かが怒ってくれるだろう、誰かが注意してくれるだろう。という方もいるだろう。

そんな時もあるけれど、それが全てではないとも思っている。

子どもに本気で向き合う姿勢を見せる事で

我が子たちが感じ取ることは

その時の出来事の解決方法だけではなく。

ただ、そこにいる。のではなく、

ちゃんと見てくれているんだ、という顕在意識ではなく

潜在意識に埋め込むように

心の拠り所を今のうちに作ってあげたい。とも思っている。

そんな潜在意識は、

【自分は大丈夫だ】という大人になって

一緒に暮らさない時が来た時も、

必ず、息子たちの力になってくれると思うから。

だらこそ、今の私の生きる意味や幸せは、そぼくな。の事だけではなく、

●子供たちと無理に離れるのではなく暮らしながら仕事もしたい。



でも、仕事も、暮らしもどっちも本気でやりたい。

今の私にとって、どっちも大切で。



③私の生きる意味、幸せは、そぼくな。の価値観を世間に少しでも広めたい。って言うのもある。


その価値観とは、

①食品は腐るという前提で“美味しい瞬間”があり、その瞬間を大切にして欲しいという事。


②食品は“便利で”と言うものではなく“美味しく心も身体も満たし癒される”ものであるという事。


“おいしい瞬間”をお届けするにはそぼくな。だけではなく、きっとどの店もそれなりに命の時間を削り責任を持ってお届けしているという事。それを、ただ “値段が安ければいい” や、 “便利” で、判断される飲食業ではなく(だからブラック業界って言われるんよ。ここを変えたい)そこに価値を感じてくれる消費者や生産者(表現者)を増やしたい。

↑そんな想いから焼き菓子屋そぼくな。はあの一般よりも高い値段設定で菓子を販売していたのですが、それは休業した今現在でも変わらない想いです。

値段を高い設定にすることで、一度消費者(受け手)の足を止めることが出来る。それは、一度『なんでこんな値段なの?』と考えるきっかけを作れると思っています。そこで去る人と、疑問を持つことでそぼくな。の思想は何?と疑問を持ち調べ出す人に分かれると思う。それでいい。し、それで良かったとやってみても、感じている。店の価値観、進みたい方向性に共鳴してくれた人達に支えられないと、店の価値観は広まっていかないから。だからと言って、ただ、値段を高くしたからOKなんて思っていなくって、それ相応に想いと所作と責任をもってお届けすることもこれからも忘れるつもりはない。

って、

価値観とか、そぼくな。の事が絡むとどうしても熱くなっちゃって書きすぎちゃいました^^;

“食”や

“飲食店”

“食べ物をお届けする仕事”のことになると、根から好きなようで話が止まらなくなるのは休業中でも変わらないようです。。^^;


話は戻して。


私の譲れない大切としている生きる意味をまとめると、

私が考える、親としての役割を全うする事。と、

食を通しての表現者として、“おいしい瞬間=感動”という事を起点としてその周りに付随する価値観を広める事。


絞ってまとめるとこういう事。

で、これを踏まえた上で

Q,今自分の力ではすぐに実現出来ない事は?

A,子供たちを近くに感じながら菓子を焼き届ける厨房を持つことが出来ない。

Q,今、自分で行動していけることは?

A,子供たちと暮らしながら仕事をすること。ブログだったり、サークル、レシピの作成。

↑しかし、これはすでに取り組み済み。プラスで、③で記載したそぼくな。の考える“食”の価値観(おいしい瞬間)を今すぐ、広める活動は出来ないか? ②の想いから子供たちと共存しながら。

A´ , 保健所の許可がいらず、何か“食(おいしい瞬間)”をお届け出来るモノ。焼き菓子が一番得意なのは自分自身一番わかっているが、新たな挑戦もやるべきだと感じる(常に挑戦する人生でありたい。ともそぼくな。の幸せの基準かもしれない。)

A´´ 焙煎しての“コーヒー豆”の販売!

もちろん、休業前、そぼくな。を営んでいる時から

コーヒー豆の販売は考えていた時期がありました。

けれどやらなかったのは

その当時は焼き菓子に一極集中したかったから、というか、手が回らず。

それは焙煎とか仕込みとかではなく、

ちゃんと“おいしい瞬間”をお伝えできるSNSでの発信であったり

お客さんとのやりとりの時間です。

正直に言うと

その伝達にコーヒーは自信がなかった。

コーヒーは菓子よりも受け手に渡れば想像を超えた状態で飲まれてしまう事例が多すぎる。それは【伝えたい=美味しい瞬間がブレてしまう】わけで。

菓子を焼き届けながら、

そのコーヒーの美味しい瞬間の一点を受け手に届ける時間が、その当時は割くことが出来なかった。

もちろん、菓子より自信が無かったこともある。

けれども、

今なら、出来る。

もっと言えば、

今だからこそ頭の片隅に置いたそのモノに向き合わなければいけないと思っている。

仕事として【菓子を焼き届ける事】が出来ない今だからこそ

しっかりと

飲み手としても

焼き手としても

コーヒー豆と向き合い、

他の自家焙煎珈琲店やコンビニ、チェーン店がお届けしていない、

【そぼくな。が感じるおいしい瞬間】をコーヒー豆を通して誠心誠意お届けできるのではないか?っ

という考えに行きつきました。

もちろん、菓子を焼き届ける事もあきらめてはいません。

誤解しないで欲しいのは

しょうがなく、コーヒーをやる。とかいう浅はかな考えでもない。

やるからには本気で向き合うわけで、

菓子の販売がまた再スタートした時、

どちらも自信をもってお届けできる環境に自分を持っていけるようなスモールゴールを目指している。


受け手の人生の一コマに彩を添えられる作り手】としての人生を生きること。

コーヒーにしても、

菓子にしても、

これが私の幸せであるから

今、自分で行動して少しでも進んで生きて行ける一歩を、歩いて行きたいと思う。作り手という表現者として。

その道の先は

全て自分の願いが叶うかはわからない。

けれども、

自分を信じて

自分の生きる意味付けを信じて

今、少し背伸びしたら出来るその一歩を「やりつくした~!」と言えるように。

日々命削って生きていたいと思うのです。

今、の息子たちと一緒に。

今、のそぼくな。の現状と一緒に。


書きましたこの思考の全てが、

今の私の私自身の生きる意味への答え。

そぼくな。をやる意味、答え。


物語は終わらない。続く。続けてやる。



想いをもって。

問いを常にもって

自分の決断に不安でも勇気をもって。


進みますか。


読んでくれてありがとう!

焼き菓子屋そぼくな。

ゆ季